◆ 積極的な異文化理解へ

■「国際理解来し方行く末」(5)


                高木 洋子(JEARN日本代表)
                NPO法人グローバルプロジェクト推進機構
               yoko@jearn.jp


◆ 積極的な異文化理解へ
  ―iEARNとの出会い―


昨年、iEARN国際会議が兵庫県淡路夢舞台で開催された開会式でiEARNの歴史が映
像で流されました。1988年、アメリカと旧ソ連の雪解けにモスクワとニュー
ヨークの高校生たちが、当時としてはまだ珍しいテレビ電話で交流をしました
。。。とのナレーションに続き、大会副委員長の納谷さんが、ニューヨークやモ
スクワの関係者にあたって苦労して手にいれた当時の新聞報道写真がスクリーン
に映し出されました。この写真に映っていたテレビ電話機器は、ルマフォンと呼
ばれる通常のアナログ回線を使った白黒静止画像送受信の電話機でした。そして、
このルマフォンが、私とiEARNを結ぶ糸になったのです。

1985年以来、ハワイ州教育委員会ハワイ大学で共同研究・創立されたNPO
レクラスインタナショナルの日本窓口として、このルマフォンを使って海外の教
室とテレビ会議でつなぎ、小・中・高等学校の国際交流活動を続けていました。
ハワイ州だけでなく、ニュージーランドやオ―ストラリアへもルマフォンを持ち
込み実績を伸ばしていましたが、段々と欲が出てくるもので、もっと多くの国々
とのテレクラスを望むようになりルマフォンのある国や学校を探していた頃です。

1996年ハワイ本部との会話の中で、ある情報を手に入れました。数年前にテ
レクラスインターナショナルからルマフォン300台を購入した教育団体がある
と。300台! すごい!というわけで情報を集めると、コンタクトパーソンは
ニューヨークのエドという人、電話番号は○○○です。たまたま、ニューヨーク
へ行く予定でしたので、エドさんへ電話をかけました。自分がどういう教育団体
へ電話をかけているのか、その名前すらはっきり分からない状態でしたが、結果
は、彼の調整がつかずこの時は会えませんでした。

その数日後、サンフランシスコの友人宅から帰国を前に、もう一度、エドさんに
電話をしました。肝心のルマフォン情報は、それらは既に殆どの台数が多くの国
に配布され、そのリストもないというものでした。エー!と絶句する私にエド
んは、一つ方法がある。それはまもなく開催される会議で、ルマフォンを持って
いる学校に手を挙げてもらい、リストを作ろう。会議って? ハンガリーのブタ
ペストで7月の始めから1週間ある会議だけど来ませんか。だれが行ってもいい
のですか? 日本からはまだ参加した人がいないから、是非、来てください。バ
タバタバタと決めて飛び込んだ先が、世界規模の教育ネットワークiEARN(アイ
アーン:http://www.iearn.org )でした。1996年7月のことです。

 次に、初めて参加したiEARN国際会議リポートの一部を紹介します。

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ちょうどアトランタ・オリンピック開催2週間前で、私にとって初めてのヨーロ
ッパでした。真夜中に着いたブダペストの空港で、確か迎えがくるという話であ
ったのに、どうなっているのやら。。。なんだかYOKOという放送があったような
。。。でも定かではなく、そのうち一度出たバスが、また戻ってきてドライバー
があちこちと人を探しています。目が合って、やっと拾われて会場へ向かうバス
の中。やれやれでした。

翌朝、ハンガリーの首都、ブタペストで開催された1996 iEARN Third Annual
International Conference 開会式で、世界各地から集まった小・中・高等学校
の先生たちとともに自分の国名が呼ばれるのを待っていました。この参加を決め
たのが2週間前で、ビザがやっと間に合い、しかも前夜到着が遅かった私はかな
り緊張していました。やがてイスラエルに続いてジャパンが呼ばれると、司会は
私の名前を呼びながら会場内を探すので、立ち上がり手を振りました。日本から
の初参加者に対して会場の拍手は大きく、昨夜からの心細さも消えて周りの暖か
さに包まれる一瞬でした。

それから1週間にわたって、過去一年間に取り組まれた50件のプロジェクトのワ
ークショップが5つの会場に分かれて行われました。最終日は、20件の新プロジ
ェクトが様々な国の様々な先生たちから提示され、提案者を中心に活発な討論で
具体的な進め方が決めらます。プロジェクト参加校の先生や各国iEARNセンター
代表者が、インターネットやe-mailによる打ち合わせに加えて、こうして個人的
に知り合うことが、その後のプロジェクトにかける熱意や責任という点で必要で
あることが納得させられます。各々の国や学校の現状によって多くの意見が出さ
れ、提案者の原案に肉がつき血が通い出す、実に面白い過程です。

プロジェクト報告の一つにテデイベアプロジェクトがありました。オーストラリ
アのボブ先生が長靴の片足をエイ!と椅子に乗せて、小さなテデイベアを両手に
目を細めて話す様子は、それだけでカッコいい絵になりました。

会期の中ごろ特別に、当地と大阪をルマフォンで結ぶことになりました。電話回
線事情の悪いハンガリーへの日本からの国際電話はかかりにくく、テレクラス大
阪の倉本先生の苦労は大変でしたが、結局、ハンガリー側からかけることにしま
した。外線が入ったファックス機を探しだして、見知らぬ事務所で英語の通じな
い女性と交渉するややこしさはまた格別で、やっと繋がった大阪とハンガリー
歓声があがりました。

教育環境も、生活風習・文化・個性も異なった教師が三々五々集まって、額を寄
せ合い討議している様子は地球学校職員室の雰囲気に似ています。その熱気は関
わっているプロジェクトをいかに大事に、工夫を重ねて進めているかの証のよう
に見えます。しかし、その年の会議出席一覧表39カ国200名を見ても、アジ
アの国々からの参加は私を含め僅か5名で、東洋の風をiEARNへ吹き込むプロジェ
クトはありませんでした。

この毎年1週間の会議で、教師たちは新しい情報と他国の教師との交流の中で自
信をつけ、またそれぞれの国へ帰っていきます。ドイツとポーランドの女性教師
が互いに教育現場の悩みを打ち明け合っている様子には、情報・知識・技術の共
有だけでなく、信頼しあう教師同士のiEARNスピリットを垣間見るようでした。
私は、この集まりの中に日本の教師たちが交わるには、どうすればいいのだろう、
iEARN Japanができないだろうかと熱くなって考え込みながら、帰国の途につき
ました。

今、手元に会期中、胸につけていたネームカードがあります。Yoko Takagi、
Teleclass International Japan, 1996iEARN International Conference。
青い単純な線に囲まれた古いネームカードであるが捨てられない記念のカードで
す。この会議から全てが始まったような気がするのです。

不思議なことに、会場やブダペストの街の記憶は一切消えています。その代わり
にiEARNの教師たちとの初めての出会いが、鮮やかな記憶として残っています。
こんな世界があった、知らなかったのは私の方でした。

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こうして踏み出したiEARNの世界は、2000年第7回北京会議において、日本から15
名を超える参加者を得ました。この参加者は帰国後もそれぞれの立場でiEARNの
普及に深く関わり、今のJEARN誕生のキーパーソンとなり、今も活動の中心的な
存在です。
 
iEARNがこのように人を引き付ける力は何でしょうか。歴史も文化も生活も気候
も言葉も政治も宗教も、そして教育もIC環境も、全く違う国々の教師たちが心を
合わせて取り組んでいる事実。しかも家族のような思いやりを互いに寄せながら
プロジェクトを進めている事実。それは、そこに集まった教師たちの子どもを見
つめる目線が同じだからだと思います。私たちの未来を、人間の未来を、地球の
未来を、この子どもたちに託す、この事実が見える教師たちだから現実の厳しい
政治的、宗教的紛争に確かと向き合いながらも、iEARNの羽をつけて集うのでし
ょう。  
  
あのサンフランシスコの友人宅からニューヨークへかけた一本の電話。その夜、
私は、友人に電話を使う理由を説明し了解を得、金額欄を空欄にした小切手を渡
し、かなり緊張して電話をかけ、300台のルマフォンの行方を真剣に聞こうとし
ていました。この積極的にしかけた一本の長距離電話は、私たちをiEARNへつな
ぎ、現在111カ国とも言う世界の教師や教育者のヒューマンなネットワークに
つなぐ糸口となったのです。

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